

サイドオーダーズ25 / TEXT:江森丈晃 ILLUST:箕輪麻紀子 / 2016.6.30 ごえんがありますように──江森丈晃
「ヒトトヒトサラ」編集長兼雑務全般を担当しております、江森といいます。このコーナーは2度目の担当となりますが、前回は本編に書くことができなかったあまりにも壮絶なお店の話。今回は、とある小説家さまに原稿をお願いしていたのですが、締め切りをひと月間違えていたことが判明! このままだとただでさえノロノロの更新ペースを死守できない!…… と、悪友が置いていったパック酒を飲みながら、猛スピードでタイプしております。
そういえば、「鬼ころし」って「鬼ごろし」じゃないんですね。いま初めて知りました。確かに「ころし」のほうが鬼のほかにもいろいろ殺生していそうな響きがあり、なんだか正直な感じがしますね。いったいなんの話でしょう。
さて、今回は5円玉の話です。銅と亜鉛を混ぜ成型、中央に穴を開けた、日本国の硬貨にまつわるエピソードです。
舞台は吉祥寺。この街は自分も10代の頃からよく遊んでいる大好きな街です。薄口醤油でいただく生レバー串と老酒の混濁が思い出深い「カッパ」というヤキトン屋があり、こちらの記事でツレヅレハナコさんも触れられている「おでん太郎」があり、「~太郎」といえばこちらの記事に登場するパリッコさんも大好きだという「闇太郎」があり、そんな老舗をショートスパンでクルクルと飲み歩き、ときには新規開拓を挟み込み、帰りには駅前ハモニカ横町に折れ、閉店間際の「なぎさや」で肉厚の干物を買って帰る(なかでも「マスノスケ」は大好物!)、みたいなことをポツポツと続けております。
ついつい散財してしまう古本屋「百年」が近所にあったらなぁ、いや……やっぱりなくてよかった! という小心に賛同していただける人も、少なからずいるのではないでしょうか。
そんなこの街の片隅に、とある居酒屋がありました。20年ほど前の話ですから、現在は「串カツ田中」になっているかもしれませんが、そこまで広くもなく、5人も座ればいっぱいのカウンターに、正方形のテーブルがひとつ。清潔な割烹着に身を包んだ50~60代の美しい女将さんが、ひとりで切り盛りしています。そのせいか、客のほとんどはひとりの男性客。誰もがみな、ここを自分だけの隠れ家だと錯覚しながら杯を重ねる、そんなような店でした。
焼酎は二階堂のみ。料理は子芋の煮っころがしや、春菊のおひたしなどをタッパーから。「チーン」という音も隠さない、つまりは平均の店。ただ、その「平均」を、細腕で維持し続ける女将さんの強さや揺るぎなさであったり、笑顔の終尾にふと覗く、か弱さや寂しさに、誰もがみな、俺がいかなきゃあの店はダメだと錯覚しながらまた杯を重ねる、そんなような店でした。
ここに通う常連客のひとりに、年季の入った皮ジャンを着た、30代前半のバンドマンがいました。髪は金髪で(過度な個性は人を記号にするため、顔の造作は覚えていませんが)かなりの細おもて。しがないバイト暮らしのせいもあるのか配偶者の欄はまっしろで、確か田舎は九州のほうだったはず。給料日にはホワイトボードのオススメを並べてみるものの、いつもはビールとお通しだけで1~2時間は粘り、という典型的な酒飲みの兄ちゃんです。決して酒には強くありません。
「あらいらっしゃい」
その夜も、女将さんはいつものように金髪を迎え入れました。少し風邪気味だという彼女は白いマスクをしたまま、「こんな格好でごめんなさいね」と目を細めます。
金髪は羽振りがよく、瓶ビールをどんどんカラにしていきました。いつもは飲まない冷酒も頼み、スクリューキャップを勢いよくもぎ取り、手酌やお酌を繰り返します。
ふたりの年齢差は、ともすれば四半世紀。確かに乾杯の時点では「親と子」なのですが、5杯目、6杯目ともなると、風邪っぴき立ちっぱなしでヘトヘトの女将さんと、まだまだ飲み足りない金髪の豪奢な笑い声により、なんとなく「人と人」の均衡ができあがるのだから、人というのは不思議なものです。「人」という字はふたりが寄り添い「人」であると聞きますが、そのままお互いが倒れ込めば、それはすなわち「×(アウト)」になるのですね。いったいなんの話でしょう。
しかしその夜のカウンターは、一線を越え乱れることが許されない、ある種の緊張感が漂っていました。
それは、金髪のある想いからくるものでした。
入店から2時間ほど経った頃でしょうか、金髪の態度に変化が現れます。女将さんの目をジッと見つめ、硬く閉まった瓶のフタをこじ開けるような形相で、「実はおれ……」と言葉を搾り出します。
それは、「明日の朝、田舎に帰る」という告白でした。
バンドは芽が出ず、半年ほど前から音楽の専門学校でも働き始めたものの、たまに出くわすボンボンの天才(往々にして彼らは幼少期から楽器に慣れ親しんでいて、なおかつ音楽で成功しなくとも実家を継げたりする)に打ちのめされ、自身の器と限界を知ったというのです。ありがちではありますが、やはり寂しい話です。
すでに引越しの用意は済ませた金髪。あとは飲むだけ、眠るだけの状態。なけなしの蓄えをジーンズのポケットに突っ込み、最後の晩を女将さんといっしょに過ごそうと決め、今夜は大盤振る舞い。まさしくロウソクの最期を思わせる小噴火をキメていたのです。
そこからはふたりのステージです。
上京直後、金髪が初めて店にやってきた夜の話。なかなか抜けなかった訛りの話。派手な彼女を連れてきた話。派手に別れた話。お金が足りないというからツケにしてあげたのに、その夜もういちど飲みにきた話。大雪の晩にふたりで飲んでいたら、引き戸が氷雪に固まり、店から出られなくなり、翌日の昼までふたりでオセロをやっていたという話。
最後のはなんだかニューシネマのワンシーンのようでもあり、どこからか、キャット・スティーヴンスの「雨にぬれた朝(Morning Has Broken)」やジョン・バリーの「真夜中のカーボーイ(The Midnight Cowboy Theme)」が聴こえてくるようです(実際は演歌の有線)。
間欠泉のように吹き出る思い出と、それをともに育ててゆくことのできなくなるという事実。すぐ前の前にまで迫った別れの時刻に、いつしか女将さんは涙ぐみ、その涙が金髪のそれを引き寄せます。
「男は引き際だ」
まつ毛を濡らした金髪がそう思ったかどうかは定かではありませんが、終わりは唐突に訪れました。
「じゃあ……お会計を……」
小さく囁かれた、たったこれだけの言葉が、ふたりの心をシンと引き締めます。
が、ここで女将さんは、女将さんが女将さんである証左のような行動に出ました。
売り上げやお釣りが入った小さなポーチから1枚の領収書を取り出し、瞬間的にペンを走らせ、それをカウンターに置きました。
そこにはひとつの数字が、「5」とだけありました。
困惑する金髪に、女将さんは引導を渡します。
「これは古くからの習わしなのよ。わたしが戴きたいお会計は、あなたとの〈ご縁〉。今晩はこれだけ置いていって。またいつかね」
ご縁?……GOEN?……5円!!!
これには金髪もたまったものではありません。完全にテクニカルノックアウトです。ヘアカラーに引火し大炎上する粋(いき)のナパームです。向こう30年は語れる美談のトルネードにして、金では買えない善意のトマホークです。
金髪はジッとうつむいたまま、返す言葉もなく、ポケットに突っ込んだままの右手が、心なしか震えているようにも見えました。
が、この直後に発せられた金髪の言葉を、僕は生涯忘れないでしょう。
「すみません、1万円札しかないんですけど……」
すごい!
破格にすごい!
おもんぱかりを鈍器で殴打!
プシュッ!と嫌な音を立て陥没する夜のレギュレーション!
そうです、思えば金髪はすでに引越しの準備を終えているのです。自宅とこの店の間に立ち寄るところなどひとつもなく、畳に並べた蓄えから、最後の1万札だけを抜き取ってきたのでしょう。決して彼を責めることなどできません。
うーん、それにしてもこれ、どのような対処が正解なのでしょうか。
あんな涙の直後に「カドのコンビニで崩してくるわ!」はありません。女将さんもそんな5円玉は受け取りたくないでしょう。
さらにダメなのは、「9995円のお釣り」です。この場合、あろうことか「5円」を女将さんから受け取ることとなり、想像するだけで膝のあたりがスースーしてきます。
ここはやはり「お釣りはいいです」がもっともスマートなのですが、夢破れた金髪の財政状況を考えると、やはり女将さんは受け取れないでしょう。
自分もいっぱしの酒飲みですから、悪意と悪意の衝突は見慣れたものです。しかし善意と善意の事故現場には、そうそう立ち会えるものではありません。夜の魔物の毒心を感じるのは、チンピラに絡まれたときでもなく、ぼったくりに傷心したときでもなく、こんなやりとりに出くわしたときだったりするのです。
おしまい。

さて、勘のいい人であれば、このエピソードにはいくつもの脚色が入っていることがわかるかと思います。小説でいうところの「神の視点」も大盛りですし、すべては創作でないのか? と訝る人もいることでしょう。
種を明かせばこの話、自分が旧友から聞かされ、そのときは腹を抱えて笑ったものの、就寝前、暗闇に発光する家電の明かりをぼんやりと眺めながら、金髪の気持ちになったり女将さんサイドについたりすることで、「あぁ、自分ならどうするのだろう」と悩み抜き、飲食業の友人やスナックのママさんなどに話して聞かせるたびに、だんだんと磨かれていったというものなんですね。
酒に酔い、いつも以上に話しベタになっている自分は、話題の順序を間違えたり、間合いを取り損ねたりしながら、「それってどういう意味?」などと聞き返されたりもし、そのたびに話術のなさを呪ったものでした。落語でいうところの「見立て落ち」の直前に新しいお客さんが入ってくるなどしたこともあり、そうなると、もう話す気力はありません。しかしその旧友に細かなディティールを訊き出し、こうして文字に起こすことにより、改めてこの話の本質、そして恐怖を整理できた気もします。次回からはもう少し流暢に話せることでしょう。
知人の小説家、中原昌也さんは、自伝『死んでも何も残さない』の序盤で、歴史(の授業)のことを疑問視しています。
曰く、「二度と立ち会うことのない確実じゃないものに対して、何が起こったのかを頭に入れたら、自分のルーツに対して感慨が生まれるのだろうか」
これにはまったく自分も同意見です。肉親や恋人に聞かせる話ですら多少の「盛り」や「伏せ」を介してしまうのが人間である以上、数年前、ましてや数百年前の過去からの伝承に、どれだけの「本当」が残っているのでしょう。そんな「尾ひれ」や「創作」をノートや単語帳に書き留めることに、どれだけの価値があるのだろうかと思うのです。
語り継ぐのであれば、誠心誠意。僕は「事実は小説よりも奇なり」ではなく、「小説のように伝えられた事実は小説よりも奇なり」という話をひとつでも多く聞きたい。その話がフィクションであろうとも、ホラであろうとも、「その場をより楽しく」という話し手の思いやりこそが、最高のつまみになるのです。その努力を惜しんでは、夜は前へと進みません。
明日もよく酔い、よく笑うお酒でありますように。
そんなご縁がありますように。
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