Copyright (C) ASAHI GROUP HOLDINGS, LTD. All rights reserved.

ヒトトヒトサラ

あの店のヒトサラ。
ヒトサラをつくったヒト。
ヒトを支えるヒトビト。
食にまつわるドラマを伝える、味の楽園探訪紀。

ヒトトヒトサラ51 / TEXT+PHOTO:嗜好品LAB ILLUST:山口洋佑 2017.5.31 杉並区高円寺北「焼き貝あぶさん」延田然圭さんの「肝アブサンガーリックフランベ」

高円寺の北口商店街を進み、細い路地を折れた場所に「あぶさん」の提灯は現れる。貝料理の専門店としてオープンし10年。今年始めのアニバーサリーには、決して広くはないこの店に150人ものファンや常連を集めたという。店主の延田然圭さんは近隣の店舗や住民に菓子折りを持参し事前交渉、通りにまであふれ返った嬌声と幸せな赤ら顏にて、この店の実力と成功を知らしめた。
10年前といえば、まだまだ水産系の海鮮居酒屋も珍しかった頃の話。なぜ貝なのか。なぜ貝にそこまでの人が集まるのか。まずは店名の由来から。

延田然圭(のぶたよんぎゅ)さん

 10周年の日はまさにカオスでしたね。椅子はすべてとっぱらって立ち飲みにしたんですけど、この路地は完全に封鎖状態。まぁ、ぐちゃぐちゃな飲み会で楽しかったっすね。もともと「あぶさん」というのは、酒好きの自分にはぴったりの屋号(編注:アブサンは主に欧州でつくられる薬草系のリキュール)。あの酒は主原料のニガヨモギの成分に中毒性があるというので禁止や解禁でたびたび話題になっていた。うちも中毒になるぐらいの味を打ち出すことで常連さんを増やしていければとやってきたので、あれだけのお客さんに喜んでもらえたというのはうれしかったですね。

オープン前の店内。左側のカウンターでは丸々と太った貝を眺めながら、右側の席ではそれがじっくりと焼かれる様子を見ながら飲むことができる。
「本日の貝」が並ぶ黒板。もちろん産地も明記されている。「置きタバコは厳禁!」と、喫煙者には厳しくも優しい。

 僕は高校を卒業した後すぐに北千住の懐石料理の店に入って、7年半修行したんです。うちの親父も飲食をやっていて、何度かその店に通っていたこともあって、「ここはいい店。修行するならここ」だと。でも最初の3年間は包丁も握らせてもらえなかったですね。先輩が帰ったあとに隠れて練習したり。今はもう、あんなに厳しい店はないと思う。お茶とか生け花の作法もそこで習って。だから料理のことならできないことはないですよ。
 独立したのは25歳のときです。最初はうちの共同経営者の地元の先輩とよく飲んでいたんですけど、その先輩はうちの母体となるもつ焼きの店をやっていて、僕にも働かないかと声をかけてくれた。半年は雇われ店長をやっていたんですけど、やっぱり自分の店としてやっていきたい気持ちもあって、ある日相談してみたら、あっさり「いいよ」と。いい先輩に恵まれましたね。

 和食のすべてを見渡す懐石料理から、もつ焼き屋へ。食の喜びは値段や格式に比例するものではないという周知の事実を差し引いたとしても、その緞帳は厚い。将来の客の顔も見えぬまま、なぜよりによって「貝」という難しい素材に着目したのか。

ジョッキには「酒の一滴は血の一滴!」の文字が。

 僕も最初はもつ焼きをやろうと思ってたんですよ。でも、この路地はすごく狭いし、隣にも向かいにも人が住んでいる。煙の出るものは嫌がられるなと。そこで野菜や海老の専門店なんかを考えていたんですけど、ある日、懐石時代にもよく扱っていた貝のことを思い出した。当時の東京には新鮮な貝を食べさせる有名店というのは自分の知る限り3店舗ぐらいしかなかったし、いけると思ったんです。

 しかし延田さんの算段は大きく外れてしまった。

 最初は地獄でした。この店は目立たないし、当時の自分は長い暖簾のこっち側で、白衣に前掛け、下駄を履いて営業していたんで、チラっと見られるとすごい高級店みたい思えたらしくて。街に馴染むまでは2年ぐらいかかりましたね。毎日泣きながら素材を捨ててました。
 転機になったのは、あるケーブルテレビの番組に出たことですね。そこから他の番組とか雑誌の取材が入って、少しずつ認知されていった。だからそのぶん、まったく知られていない1年目からの常連というのは戦友みたいもんです。ずっと毎日のようにきてくれて、1杯だけ飲んで帰るという人もいるので、お通しにも気は抜けませんね。

本日のお通し。昆布と揚げの下には貝の剥き身がゴロゴロと。写真右はスタッフの田窪宏将さん。「(手元のスピードに驚く取材班に向かって)貝を剥くのは慣れですよ。ひとつふたつの量じゃないんで、ここで働けば誰でもできるようになります」

新鮮な貝は足で仕入れてます。周防大島の漁師さんが飲みにくれば、その翌月には社員旅行です

 確かにあぶさんのお通しには気迫めいたものを感じる。1杯の酒とこの小鉢のみでサラッと帰れる常連たちの精神力を見習いたいとは思いつつ、胃袋からは「早く次を頼め!」という、怒号にも似た指令が。

 うちの売りは、やっぱり貝そのもの。魚と違って熟成がどうというものでもないし、デリケートで足が早いから、とにかく鮮度が命なんです。水槽も置いてないし、冷凍ものや加工処理された既製品も使わずに、よーいどん!でやっているので、その日仕入れたものはその日に売り切りたい。かなりのリスクをしょってますね。

 ただ、一度食べてもらえさえすれば違いはわかってもらえると思うんで。うちで食べたばかりによその貝を食べられなくなったという人もたくさんいます。とくに赤貝なんかは少しでも(時間を)置いちゃうと旨さが飛んじゃう。この貝の旨さは香りの旨さなので。

いよいよ刺身が登場! 「おまかせ活貝盛り合せ 3種」は、手前から時計回りに白貝、平貝、赤貝。

 驚いた。声が出た。すぐ目の前で処理された活貝は、まるで程よく熟したフルーツの果肉を食べているかのような爽やかさ、プラス、磯の味わいの濃厚さという、実際に味わわなければ想像することすら難しい「味覚の足し算」におけるシンプルかつ最良の回答だ。
 潮の恵みがじゅわっ!と弾ける白貝。サクサクとした食感の中に甘みが広がる平貝。そして飾り包丁の入った赤貝の、目の覚めるような芳香。
 続けざまに出された焼き貝には、たっぷりの生海苔や塩辛、バター醤油などの仕事が施され、素材の奥に秘められた雄々しさを、これでもかと引き出している。

「おまかせ焼き貝盛り合せ」の3品。手前から大アサリ、ホタテ、ホッキ貝。
こうなると日本酒を頼まずにはいられない! 1杯目は延田さんのオススメから「英君酒造」の新酒。時間差で迫りくる酸の華やかさに箸も進む。

 ただ、この「活貝盛り」や「焼き貝盛り」というのは、うちの看板メニューではあるんですが、ハッキリ言ってまったく儲かんないんですよ。原価率60はいってるんで。

 一応までに「原価率」とは、メニューの表示額に対する材料費の割合のこと。60とは60%のことであり、つまりは1000円の料理を出すために600円の仕入れが必要になるということ。無論、そこに地代や人件費は含まれていない。

 うちみたいな店は、やっぱりいい素材をどれだけ安く仕入れられるかが勝負。築地はもちろん、季節のものは産地から直で仕入れてます。それにはやっぱり足ですね。実際に自分たちが漁港に出向いて、話をして。
 前に周防大島の漁師さんが飲みにきてくれたときも、翌月には社員旅行ですよ。僕らも海に入って、素潜り漁の様子を見せてもらって。あと、僕は全国の蔵元にいくので、そこで現地の漁師さんを紹介してもらうこともあります。

 うちの酒は「ストーリー」のあるものしか置いてないんです。基本的には「自分の目で見たもの」。この「英君」も、麹室(こうじむろ)に入ってもやし(麹菌の胞子)を振らせてもらったり、仕込みを手伝わせてもらいました。
 あとは福井の「常山」もいい酒です。日本酒は飲み手も造り手も世代交代が進んでいるんです。ここは自分と同い歳ぐらいの杜氏がやっていて、話も合うので、じゃあ応援させてよと。

常山酒造は日本酒度+20という限界辛口の酒を造るなど果敢な挑戦でも知られる蔵元。しかしその味は透明な奥ゆきも併せ持ち、この特別純米も滑るような口当たりとジューシーな酸に唸らされる。
そこに合わせるは「貝なめろう」! 肝を叩きオイスターソースやニンニクを加えた自家製味噌は、〆の「肝味噌おにぎり」にも乗せられる。そんなの絶対に旨いっ! しかし今回は我慢っ!(理由は後述)

うちを支えてくれている常連たちを飽きさせてはいけない。このことはいつも考えてます

 続いての「出汁巻き玉子」はしっとりふっくら。感涙の旨さである。ここにも延田さんが「1年を通して値段のブレがない」というアサリとハマグリの出汁が加えられ、カツオや昆布とはまた違った、複雑な塩気を感じることができる。

素朴かつ贅沢な自然の美味!

 だからうちの料理は無限ですよ。カツオや昆布の代わりに貝で出汁をとっているというだけで、それをあらゆるメニューに応用できる。
 うちを支えてくれている常連たちを飽きさせてはいけない。このことはいつも考えてます。カウンターの固定メニューはこの10年で5回は入れ替わっていますし、日替わりで担々麺なんかをやることもある。今日は「貝の餃子」がありますね。

 またこの餃子が脳震盪を起こすほどの逸品! 「殻」から「皮」へと包み直された貝を前に、ひとりは「人生餃子ランキングTOP3には入る!」と震え、ひとりは「これだけの専門店に行列できる!」と声がデカい。味の決め手となる平貝の肝や干し貝柱(とその戻し汁)は、豚の挽肉やにんにく、炒ることで粉末にした豆チのパンチに負けることなく、ここが貝料理の専門店であることを高らかに主張している。

写真右はスタッフの伊藤祐介さん。「自分はもともとオープン当初からの客だったんですけど、人が足りないから手伝ってくれと言われて、今年で8年目になります。それまでは新宿の有名な水炊き屋で働いていたこともあるんですが、貝という素材は本当に面白い。今日の餃子も自分が仕込んだものですね」

 次なる料理も肝の旨さが極彩色! まな板では色とりどりの野菜が切り分けられ、それ以上に目を惹くオレンジ色が、フライパンで音を立てる。カメラマンの前髪を焦がすほどの炎と蠱惑的な香りは「アブサン」によるもの。これが今回のヒトサラ、「肝アブサンガーリックフランベ」である。

「アブサン」からは屋号をもらっているので、なんとかメニューにできないかなと思ってやってみたら旨かったんですよ。昔どっかのレストランで食べた魚のソテーにこの香りがついていて、うちの店が出すことのできる「味が濃くて油に負けない素材」と考えたら、やっぱり肝かなと。バターが入った洋テイストだしアブサンの香りもすごく強いですけど、うちが選んだ日本酒とはよく合うと思いますよ。

 バターの乳感と鮮烈なハーブの香りにてコーティングされた肝のなめらかさ。舌と鼻腔の奥へ奥へと分け入ってくる味覚情報の激流は、人を無言にさせる。そこに追い打ちをかけるように炊き上がったのは、これまたどっさり肝や貝身が入った「釜飯」である。

 これもよく出ます。お腹いっぱいで帰ってもらいたいので、2人前でも茶碗6杯ぶんぐらいは炊いちゃってます。釜飯の具材は季節の貝ですけど、牡蠣が好きな人なら牡蠣だけでも炊きます。そのへんは相談してもらえれば。

 この釜飯は具材ひとつがどうのこうのというよりも、米のひと粒ひと粒が小さな貝に化けていると捉えたほうがいいかもしれない。それほどにしっかりと出汁が染み込み色のついた白飯は、2杯目のおこげがまた絶品。ここで小鉢に残しておいた「貝なめろう」も活きてくる。あぁ、おにぎりを我慢しておいてよかった。酒飲みの探究心(=意地汚さ)に際限はないのだ。

菜の花の香りも麗しい珠玉の山海めし! 確かな火加減で炊かれた土鍋ご飯には、飴色のお宝がついてくる。

 今日食べてもらったもののほかにも珍しい貝はたくさんあるので、なんでも聞いてください。日本酒といっしょで、それぞれすべてにストーリーがあるので。

ミュージシャンやクリエイターにも支持されるあぶさん。「このTシャツは10周年で画家の五木田智央さんがデザインしてくれました。〈TRUE STORY〉というのはまさに物語ってこと。ちなみにうちの常連で売れたバンドなんてひとつもない。地方から出てきて憧れの高円寺に住んで、みたいなのはまずダメですよ(笑)」

 やっぱりストーリーというのは大切だと思いますね。高円寺は家賃がどんどん上がって、この10年で消えていったテナントの数というのは数え切れない。そうなると資本のあるチェーン店や美容室ばかりになるから、どんどん街はダメになる。そういう時代にうちみたいな飲食店が生き残るには、やっぱりいい素材を提供してくれる生産者や蔵元とどうつながっているのかだと思いますね。やるからには中身のあることをやりたいし、この店もストーリーの一部でありたい。それじゃないと続かないですよ。

 延田さんの言葉は文節が短く、語気も強い。それは「風景」の見える漁港への感謝や、そこからの素材を活かす細かやな技術に対しての、硬い自信の現れ。まさに岩牡蠣の殻を思わせるほどに強靭な料理人であり、経営者である。

 うちの会社は今、所沢、恵比寿、鶯谷と4店舗やっているんですが、今年中にはもう1店舗出したいと思ってますね。「田中水産」という屋号でやってる所沢の店は焼き鳥もありますし、恵比寿の「あこや」でも千葉の旨い豚肉を出しているので、今後は肉を母体にしていくのもいいかな。
 何度でも繰り返しますけど、本物の貝というのは本当に儲からないんですよ(笑)。

あぶさん 東京都杉並区高円寺北2-38-15
03-3330-6855
営業時間:17:30~26:00
定休日:水曜日

前の記事
品川区平塚「大滝」滝沢るり子さんの「青森のもずくキッシュ」