あの店のヒトサラ。
ヒトサラをつくったヒト。
ヒトを支えるヒトビト。
食にまつわるドラマを伝える、味の楽園探訪紀。
ヒトトヒトサラ29 / TEXT+PHOTO:嗜好品LAB ILLUST:山口洋佑 2016.01.29 台東区浅草「浅草名代らーめん 与ろゐ屋」松本光昭さんの「夜の部」
「与ろゐ屋」の名を知らないらーめん好きはいない。地上波や専門誌の花形として幾度となく紹介され、ときにはグルメ漫画の表紙を飾り、しかし頑なまでに「浅草らーめん」の指標であり続ける、東京屈指の名店だ。しかしここの階段を昇り、テーブルを陣取り飲むビールの美味しさを紹介した記事というのは、これまで存在しないのではないか。
凡百の中華料理店では敵わない餃子の甘み、ジリジリと温められた焼き豚、ぽってりとした味つけ玉子は双子であり、これもまた、冷えた小瓶の相棒となる。もちろん締めには麺をすすり、その日2度目のしなちくを噛むのだ。
創業者にして浅草の顔役である松本光昭さんのお話に頷きながら、今回もたっぷりと飲んできました。

子どもの頃に食べた「表面に脂が浮いた食べ物」あの感動を再現するために、僕は浅草に戻ってきたた

僕は生まれも育ちも浅草なんだけど、最初の店は神田でスタートしたんですよ。子どもの頃かららーめんが好きでしかたがなくて、知り合いの中華料理屋さんで鍋を振らせてもらったりもしていたから、大学を卒業した後もその楽しさが忘れられなくてね。実は商社マンをやっていたこともあります。ただその頃もらーめん屋になることが頭から離れなくて、当時の社長に頭を下げて、脱サラしたんです。その社長も自分の熱意を面白がってくれたんだろうね。辞めていく自分に資本金を貸してくれたんですよ。僕は一念発起して、その界隈の労働者を相手に1食200円のらーめんを1日1000食も売り始めるんです。「小諸そば」って立ち食い蕎麦屋があるでしょう? あれのらーめん版みたいな店で、おにぎりとかお粥、シューマイなんかも出してたな。
持ち帰りの人のために使い捨ての容器を用意して、1分40秒で麺をあげる。朝7時に最初のお客さんがきて、夜9時までやって、そこから翌日の仕込みもするわけだから、ほとんど眠れない。延々と「お次の方~、お次の方~」ってね。乳飲み子もいる中、夫唱婦随で大変なスタートでした。最初の半年で20キロは痩せましたから。
その後も松本さんは千代田区を拠点にらーめん店や中華料理店などを次々と開業していく。人並み外れたらーめん愛、そして読みを同じくする紳士服店「鎧屋」を経営されていたご両親から受け継いだ商売の才覚は、今から30年も前に開花していた。
多いときは全部で5店舗を並行してやってました。そんな忙しさの中で、自分が子どもの頃に出会った昔ながらの中華そば、つまりは煮干しや鰹節を効かせた醤油らーめんがやりたくなって、僕は浅草に戻ることにしたんです。
松本さんの語る「昔ながらの中華そば」とは、自らの舌が覚えていた、ある店の1杯がモデルになっている。
僕は商売の家で育ったから、基本的におふくろは料理をつくらない。昼飯は「長生庵」という蕎麦屋でとることが多かったんですけど、あるとき頼んだ「表面に脂が浮いた食べ物」に衝撃を受けたんです。それまで日本蕎麦しか知らなかった小学生にしてみれば、「肉が乗っている! しなちくがやたら美味しい! なんだこの新しい食べ物は!」って感じで大好物になって。あの味が自分の原点というのは間違いがないので、僕なりにかつての感動を再現してみようと思ったんですね。この店(与ろゐ屋)は、ちょうど僕の10軒目の店です。

一億総グルメリポーター時代の現在、らーめんを語る表現は星の数ほどあるが、やはり「本物」の言葉は格別。すぐにでもスープをすすりたくなるところだが、今晩の裏テーマは夜のメニューの完全制覇である。まずは小皿の急先鋒「ピリ辛しなちく」と「腸詰」、そしてらーめんに継ぐ看板メニューである「和風ぎょうざ」から攻めていく。
基本的に夜の小皿はらーめんの具材をベースにアレンジしたものだけどね。平日なら350名とか400名、週末は500名、正月ともなると700名とか800名のお客さんが食べにきてくれるので、あまり凝ったものはできないんですよ。でも餃子には自信がありますよ。味つけは中華料理をやっていた時代に覚えた中華まんじゅうのそれをベースにしていて、餡は豚肉の代わりに鶏のもも肉、あとは細かく刻んだ春雨を混ぜ込んで、さっぱりと。僕はここから50メートルぐらい歩いたところにも「ら麺亭」という、らーめんを330円で出す店もやっているんだけど、そこでは「肉厚ワンタン」としてこの餡を出してます。ビールがすすむ味だと思いますよ。




「らーめん食べ歩き」に「らーめんコンペ」与ろゐ屋はらーめんの「道場」でもあるんです
お次は肉の饗宴だ。上質な肩ロースを煮込んだブ厚い焼豚がシアワセの扇子型に並んだ「ねぎちゃーしゅう」と、それを細かくほぐし、味噌と生姜を効かせたものを白米に乗せた「肉ねぎごはん」を食べ比べる。



夜の浅草は人も少なくなるのでこういうちょっとしたつまみで飲んでもらえればと思ってね。思えば浅草も変わりました。ただ、それはいい方向にね。若い人の中には、映画なんかの影響で、昔のほうが風情があったと思っている人もいるみたいだけど、僕が学生の頃の浅草というのは、汚いわ、怖いわ、そのスジの人は多いわで大変な町だった。僕は私立の学校まで通学していたから、「松本の家ってどこだっけ? 浅草? 本当にあんなところに住んでるの?」なんて驚かれたものです。



でも、僕はずっとこの町が大好き。今も昔も浅草にどっぷり。若い頃は親父とのお祭りの想い出があるし、今でも神輿を見ると興奮しちゃう。着物が乱れるのもお構いなしに息子といっしょに担いでますよ。息子も食べ物をつくるのが好きで、京都のイタリアンでの修行を終えて、今ではここに戻ってきてくれてます。今日はいないけど嫁さんも働いてくれてますから、モロに家族経営ですね(笑)。
小江戸をテーマにした伝法院通りのリニューアルというのも、僕がしかけたものです。東京都の「地域連携型モデル商店街事業」の先駆けで、地元の方にも了解を取ってね。町づくりのシンポジウムにも出れば、寺子屋をやってみたり、この町の活性化のための苦労は惜しみませんよ。
ここで松本さんに1本の電話が入る。それは株式会社ラーメンデータバンク取締役会長の大崎裕史氏からのものであった。失礼を承知で用件を聞けば、明治43年に浅草で開業し、東京らーめんの礎となった「来々軒」の子孫の方に会う約束を取りつけたのだそう。松本さんは電話に向かい、「せっかくなので来来軒の跡地を見ていきませんか?」と嬉しそうだ。
ひょんなご縁で子孫の方にお会いできることになったので、たまには僕がインタビュアーになろうと思って(笑)。こんな機会は滅多にないですから、この業界の牽引者である大崎さんもお誘いしたんですよ。僕はいつもこんな調子でらーめんのことばかり考えているんです。らーめんは全然飽きませんね。この店に出ているときは毎日自分のらーめんを食べますし、全国47都道府県のすべてでらーめんを食べてきました。浅草にいると自然といろんな用事が入ってきてしまって気持ちが休まらないので、毎月必ず旅行するようにしているんです。大抵は2泊3日。ランチ終わってから夕方の便で発って、行く先々のお店の味を試してね。

この原稿では「ラーメン」を「らーめん」と平仮名で表記しているが、それは松本さんの「らーめんは世界に誇るべき日本食。だからメニューも日本語で」という意思を受けてのもの。また、日本食とは「季節感のある料理」のことであり、事実、与ろゐ屋の厨房からは、この国の風土~旬を活かした数々の限定らーめんが送り出されてきた。そんなメニュー開発の燃料となっているのが、従業員総出の「らーめん食べ歩き」と「らーめんコンペ」だ。このシステムが面白い。
美味しいものをつくるには、美味しいものを食べなきゃいけない。そこで僕は「らーめん食べ歩き」というフォーマットをつくって、従業員それぞれが休みの日に食べてきたらーめんの特徴をレポートさせるようにしたんです。自分の思ったことを用紙に書いて、そこに写真を1枚貼りつけて、発表会の日に提出する。新規の店なら僕のポケットマネーから2000円を支払う。交通費とらーめん代ですね。……ただ、そこで僕が念を押しているのは、悪いことは書かなくていいし、いいところだけを見つけてこいということ。それはたとえば「紙エプロンや髪留めのサービスがあった」とか、「寸胴の上の網台にどんぶりが置いてあって、いつも湯気で温められていた」とか、「帰りがけに笑顔で送ってくれた」とか、そんなことでいいんです。なにかしらうちの店にとってプラスになったり、将来の自分の糧になることだけを書き留めてほしいんですね。
「らーめんコンペ」はそういう日々の研究成果を発表する機会です。日曜日の朝早くに集まって、みんながそれぞれに新しいメニューをつくって評価を交わす。カウンターに新作らーめんを並べて、僕が事前に用意しておいたお品書きの書(しょ)を添えて、みんなで得点をつける。1位になったものは味や盛りつけをさらに研究して、季節ごとの限定メニューとして出していく。柚子を擦って麺に練り込んだり、秋茄子とじゃこを使ったり、手鍋でアサリの出汁をとったり、冬野菜、豆乳、石臼で挽いた全粒粉の麺、冬は寒いので味噌……これまでありとあらゆる素材がカウンターに並びましたね。
こういうことをやるのも、うちで働いた人にはいつか自分の店を持って欲しいから。僕は「5年である程度のレベルになったら追い出しにかかるからね。じゃないと飼い殺しだよ!」と話しているし(笑)、僕がかつての社長にお世話になったのと同じように、これまでに11人を独立させています。偉そうな言い方ですけど、この店はらーめんの「道場」なんですよ。売り上げや仕入れの管理もスタッフが交代で担当する。原価率の管理なども順番にやってもらう。食べ歩きもコンペも彼らの将来のための鍛錬であって、アイデアや発想の練習のためにやっていることなんです。

浅草の味を守る。それは必ずしも、味を変えないということではないんです
こんな話を聞けば、今季限定の「柚子切り塩らーめん」を頼みたくなるところだが、ここは初心貫徹。今回は「夜の部」でしか頼むことのできない「与ろゐ屋ブラック」をチョイス。どんぶりを満たす漆黒のスープは、肉の脂に照りながらも澄み切った味わいで、与ろゐ屋のトレードマークともいえる歯切れのよい中太麺にトロリと絡みつく。刻み生姜と柚子の風味も相まり、すべての素材がすべての素材を引き立てる、まさにドリームチームのような1杯だ。




うちのらーめんで一番味わって欲しいのは、すべての素材のバランスなんですよ。今はこってり系ならエグいぐらいこってりしていたり、イエスかノーかに特化したらーめんというのがすごく多いですよね。たとえばある店は、魚粉をスープの上に山盛りにして出しているんだけど、僕の考えでいえば、魚粉というのはひとつの素材であって、わざわざお客さんに見せるようなものではないと思うんです。もちろんうちの店も昔から、たぶんどの店よりも早く魚粉を使ってきましたけど、それはあくまで鰹節や煮干しの出汁とのバランスを取るためのもの。味のベースとなる動物系のスープに魚の旨味が溶け出す時間というのが、煮干しの粉と煮干しとでは随分違うから、開店から閉店までの時間で、寸胴の中のスープの味をなるべく均一に保つための技として使っているわけです。
人の味覚というのはシビアなもので、確かに味というのは、変えていかないと長く店を続けられないところがあります。ただ、それは奇抜な素材を使ったりすることではなくて、次の味への目標を立てたら、あくまで常連さんにはわからないように、3ヶ月ぐらいの周期で少しずつ変えていって、1年後にはさらに旨くなっている。そういう努力の繰り返しがあってのものだと思うんです。浅草の味を「守る」ということは、必ずしも味を「変えない」ということではないんですね。味というのは町といっしょ。愛されながら、ゆるやかに変わっていくものなんですよ。

ふと隣のテーブルを見れば、地元の高校生が、お互いの塩らーめんと醤油らーめんを交換しながら「参りました! 確かにこっちもヤバいね!」と対戦している。その奥の老夫婦は慣れた手つきで黙々とれんげを口に運んでいる。こうした光景を眺めていると、与ろゐ屋の味は、もはや松本さん個人の手を離れ、確固たる浅草の味として根づいていることがわかる。やはり松本さんにとって、らーめんへの想いと浅草への想いは同じものなのだろう。
そうです。僕のライフワークは、味づくり、人づくり、町づくり。そのどれかが欠けてもダメなんです。
浅草の歴史と未来を同時に写す松本さんの眼差しに、身もココロも風流三昧。浅草という町をすすり、丸ごと飲み干した「夜の部」であった。


浅草名代らーめん 与ろゐ屋
台東区浅草1-36-7
03-3845-4618
営業時間:11:00~20:30
定休日:無休
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