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ヒトトヒトサラ

あの店のヒトサラ。
ヒトサラをつくったヒト。
ヒトを支えるヒトビト。
食にまつわるドラマを伝える、味の楽園探訪紀。

ヒトトヒトサラ25 / TEXT+PHOTO:嗜好品LAB ILLUST:山口洋佑 2015.11.30 横浜市港北区日吉「欧風家庭料理 VON」中崎由幸さんの「アイスバイン」

本格的な洋食と気の置けない居酒屋。一般的には隔たりのあるこのふたつのよさをミックスしつつ、フォークと箸の二刀流にてユルユルと飲ませてくれる店、それが日吉の「VON」だ。
ランチタイムは極上のシチューやパスタが、夜はそれら定番に、(御近所の)慶應義塾大学生の胃袋を支えるフランクなメニューが加わる。オーナーの中崎由幸さんはフレンチ~ドイツ料理の一流シェフに上り詰めたのち、9年間の居酒屋店主を経験。ならばとヒトトヒトサラがオーダーしたのは、ドイツの家庭料理にして代表的なPUBディッシュである「アイスバイン」。あえてメニューにはないヒトサラをお願いしてみた(←もちろん事前予約でオーダー可)。
「緊張しちゃうよ~、もう自分たちで料理して飲んでよ~、あとで見にくるからさ~」と照れながら、磨き込まれたフライパンを火にかける中崎さん。
あれもこれもの贅沢時間の始まりです。

居酒屋「盆」から洋食「VON」へ。「なんでもあり」の、優しき由来

中崎由幸さん。

 僕がこの街で商売を始めたのは、もう30年以上も前。最初はアルファベットの「VON」じゃなくて、盆栽の「盆」という居酒屋をやっていたんです。僕はレストラン出身だから、本当は今みたいな店を「VON」という名前でやりたかったんだけど(”VON”はドイツ語で貴族や男爵を指す称号)当時はお金が全然なかったから、じゃあまずは居酒屋かなって。だから当時の「盆」というのは完全に当て字で、「VON」の幼少時代みたいなものなんです。なんで居酒屋だったかというと、醤油と割り箸があれば営業できるから。レストランならナイフとか胡椒挽きひとつが3000円とかするわけで、あの頃はいきなりそのリスクを背負って独立するわけにはいかなかったわけです。
 でも、そんな気持ちで始めた居酒屋が楽しくってしょうがなくなっちゃったんですよ。地下にあってね、畳があってね、終電を逃して帰れなくなった学生たちが泊まっていくような店。彼らも自分の酒好きをわかってるもんだから、僕を酔わせて──まぁいちおうオッケーは出すんだけど──基地(厨房)に入ってムシャムシャ食べてる。でっかいネズミみたいなもんだよね(笑)。さすがに朝まではつきあえないから、最後は「シャッター閉めて勝手に帰ってくれ」って(笑)。男はもちろん女の子もヘベレケで、あれが僕の第二の青春時代だね。そんな彼らが今や慶應の教授とか准教授になってるんだから面白いよね。

「色々たっぷりきのこの温サラダ」。トマト、セロリ、パプリカ、そして湯気を上げるきのこ類。左右に添えられた酸味はゴーヤのピクルス。さまざまな温度と香味がひと皿に調和。

 これがVONの「なんでもあり」の理由である。居酒屋「盆」は9年の営業ののち閉店したが、中崎さんを慕う学生たちは数知れず、レストラン「VON」として再出発したのちも顔を出す。そして懐かしの味に顔をほころばせるものだから、かつての人気メニューもそのままに残ってしまったというわけだ。

 一般のお客さんは洋食のコースを頼むけど、慶應の先生や卒業生たちは単品でワインとかビールを飲むから、「ジャーマンポテトだけはやめてくれるな」みたいな顔なじみがたくさんいるんですよ。だから(メニューに関しての)狙いは全然ないですよ。長い年月の積み重ねだね。あなたたちみたいに樽みたいに飲む人もいれば(笑)、お昼は僕よりも歳上のマダムたちが集まって、僕のファンクラブ状態になっちゃうから(笑)、ほとんどお酒は出ない。僕のランチは1000円前後だし、洋食だけじゃあこの商売はやっていけないというのもあるかな。
 ジャーマンポテトはその名の通りのドイツの料理で、向こうではソーセージを使うんだけど、うちはベーコン。そのほうが玉ねぎの甘みによく絡むからね。バターたっぷりだけど、どこか和風で美味しいでしょ?

「キノコとベーコン入りジャーマンポテト」。素揚げしたジャガイモと、きのこ、玉ねぎ、ベーコンを、黄金色のバターでまとめた逸品。パンもビールもおかわりお願いしまーす!

 この水餃子もかつての人気メニューで、中国人の学生さんから習ったもの。上海大学からの留学生が、日本に着いたその日に面接にきたんだけど、まだほとんど日本語もできない状態で、なんだかほっとけないから雇ってあげたら、思わぬ恩返しが待っていた(笑)。

「中国人直伝すいぎょうざ」。ぷるぷるツルツルとした皮の喉越し、爽やかな香りの具材。まろやかな辛味のタレに浸しては食べ、浸しては食べしていると、あっという間になくなってしまう

 こっちの中国人ばかりが集まって「餃子の会」をやるんだけど、餃子に対しての意識が全然違ってね、「日本人が食べている餃子はとても貧素です」と語る彼女に、すごくいいレシピを教わったんです。食べていて気づかない? うちはキャベツじゃなくチンゲン菜を使ってるんですよ。そこに海老の甘み。ニラはたっぷり入れるけど、にんにくは使わない。肉は牛の合挽き。中国でも山陰の人たちは豚を使うんだけど、都会の人間は牛肉を使うって話してたな。

ドイツ料理というよりは、ドドイツ料理!?料理は美味しければそれでいいわけです

 本場仕込みの水餃子に続いて運ばれたのは、ストイックなまでの純洋食である「ハンバーグステーキ」と「牛ほほのシチュー」。これだからVONは楽しい。中崎シェフは「どこの料理店もやっている基本を押さえているだけですよ」と謙遜するが、スパイスの刺激に頼ることのないその味は、確かな年輪とルーツを感じさせるものだ。

「ハンバーグステーキ(写真左)」と「牛ほほのシチュー(写真右)」。VONならではのつけあわせ「かぼちゃのマッシュ」を溶かしながら食べると、ふぅ~、という美味しいため息がこぼれる。
「ハンバーグの玉ねぎはシャキシャキ感を残したいから炒めない。牛乳も甘みが出すぎるので使わない。コツとしてはそのぐらいで、家庭と変わらないはず。でもこれが多いときで1日に30個は出るんです。見るのも嫌なぐらいつくり続けてるね(笑)。ほほ肉のソースは加熱した野菜の味をいかに反映させるかにこだわってるかな。肉汁のスープに、玉ねぎ、人参、セロリ、パセリ。最後にすべてを丁寧に裏漉しすることで、素材そのものを食べてもらおうと思ってね」
20世紀アメリカの巨匠、ノーマン・ロックウェルの画風で描き起こされた中崎さんのポートレイト。「これすごいよね。ロックウェルのタッチを専門に教えている先生がいて、そこの生徒さんがうちの常連なの。知らない間に描かれちゃって、最初は恥ずかしくて恥ずかしくてショックだったんだけど、まぁ、僕が死んだらこれが遺影になるかなって(笑)」 VONで働く池田早紀さん。「好きなまかないですか? いつもたくさんいただいていて、どれもすごく美味しいんですけど、とくにスープは最高です。人参にしてもかぼちゃにしても、味も栄養そのままで、学生の身には本当に助かってます。いつものマスターも酔っ払いのマスターも大好きですよ(笑)」

 料理人の始まりはドイツ料理をやっていた兄貴の影響だね。自分は漆と煙草で有名な岩手の出身で、工業高校の機械科にいたんだけど、とにかく男ばかりの学校だったもんだから、手に職をつけられて、なおかつ女性がたくさんいる仕事場がいいなと思って。要はウェイトレスさんと仲良くなりたかったの(笑)。(ゴルフの)フジサンケイクラシックなんかでも有名な川奈ホテルの系列で働いたこともあるし、新橋のアルテリーベ(ドイツ/フランス料理を主体にヨーロピアン・キュイジーヌの先端をゆく老舗店。ウィーンの宮廷空間を東京に再現させたラグジュアリーな調度品~室内楽の生演奏が楽しめることでも有名)にいたこともある。ドイツ料理だけでは視野が狭くなるし、その点フレンチというのは、その技法を覚えさえれば、すべての料理が見渡せる。ただあの頃は(お茶ノ水・駿河台の)山の上ホテルの料理長がくればスタッフ全員がフランス語、(赤坂TBS会館の)「志度(シド)」の支配人がきてもまたフランス語を喋らなくちゃいけないという時代で、僕もずいぶん苦労したね。大使館の食事会に呼んでもらったこともあるけど、自己紹介なんて足が震えてさ(笑)。

 ここで、当時必死で身につけたという白鳥や孔雀の氷彫刻の写真を見せてくれる中崎さん。華やかなパーティ会場には、あのジョエル・ロブションを始めとする、フランス料理界の重鎮たちが笑っていて……

 僕はここまでいかずに居酒屋を始めちゃったんだけどね。さっきも話したように、当時は学生たちと飲んでいればよかったから、それはそれですごく楽しかったんだけど、心のどこかで「きちんと修行してきたんだから、人生1回は自分のレストランを持たなきゃマズい」という気持ちがあって、なんとか始めたのがこの店。もうかれこれ16年になるね。

 だからこそ、これからは自由にやってもいいのかなって思ってる。和食でも洋食でもなんでもできるし、個人の店だから誰にとやかく言われることもない。あらかじめこうしなきゃいけないと決める必要はないじゃない。料理なんか美味しければそれでいいわけで、今日予約してもらったアイスバインも、ドイツ料理というよりは「ドドイツ料理」だからね(笑)。

豚肉料理の大奥へ。中崎個人料理史の集大成、アイスバイン

「アイスバイン」とは、豚のすね肉を丸ごと切り出した豪快なブロックを塩漬けにし、さまざまな香辛料/香味野菜とともに長時間煮込んだドイツの家庭料理。皿をゆらせばフルフルと震える半透明の装いと、まだ桃色の中心部。ナイフに当たる骨の感触までがたまらなく旨い。その調理法から「柔らかめのベーコン?」という印象を受けるものも多い中、VONのそれは「香り高い角煮のかたまり?」というニュアンスで、ビールとともにライスを頼みたくなるような美味しさだ。なるほどマスターの「ドドイツ料理」に座布団10枚!

ジャーン! この存在感! ナイフより先に携帯に手が伸びてしまいそうな「アイスバイン」の勇姿!
塩辛いけど甘い。甘いけど塩辛い。食べる部位によりまったく味を変える、天寿国のヒトサラ。キャラウェイが香るザワークラウトとマスタードのフックもあり、「こんなに多いのか!…と思ったけど、するする入ってきちゃいますね。なんならもうひと皿頼んでもいいかも(←女性)」の声も。
ゼラチン質の皮はもちろん、肉もとにかく柔らか。ジビエや熟成肉への表現に使われる「野趣」と、それらでは味わえない恍惚の食感にうっとり。
さらにはアイスバインの煮汁からつくられたスープも! 「煮汁は冷蔵庫入れておくと、その上にスプーンを落としても沈まないぐらいにプルンプルンになる。コラーゲンたっぷりだから女性は飲んだほうがいいよ!」と中崎さん。
ビールはもちろんレーベンブロイ! 独ミュンヘンの風景が泡の彼方に……。

 ね、ドドイツ料理でしょ?(笑)。この店のテーマは、日常的に食べてもらえる洋食。特別な日にしかレストランにいかないお客さんが、平日の夜に気軽に入ってこれて、なおかつ「こういうのって初めて食べるわ」と楽しくなれるものを出す。それが目標だし、みんながざっくばらんな気持ちで「洋食って美味しいんだね」って思ってくれればそれでいい。やっぱり僕の料理は「個人料理の歴史」だからね。
 でも、そこが欠点といえば欠点かもしれないんだよね。僕は20歳でこの世界に入って、24歳には料理長。上の地位にいくということは、教えてくれる人がいなくなるということでもあってね。

 であればこそ、自身の味を次世代に伝えたい。そんな気持ちが生まれてもおかしくないと思うのだが……

「よかったらこれも食べてよ」とサービスしていただいた「レバーペースト」。「これは妊娠してる娘のためにつくったんだけど、美味しくできたからお客さんにも食べてもらっててね。そろそろ娘のぶんがなくなっちゃうんじゃないかな……(笑)」

 もちろん自分で編み出した味には愛着があるけど、今は時代が悪いかもね。パスタもシチューも湯煎とかレンジでできるものがたくさんある。業務用の冷凍食品だってなんでもある。自分みたいにすべて手づくりというのは廃れつつあると思うし、この街も個人店というのはずいぶん減りました。なにより今の若い子が、当時の自分みたいに、寝ずにフランス語の勉強をして、朝は朝でデザートを覚えるためにケーキ屋に入って……みたいなことができるとは思えないしね。もしかして洋食やりたいの? タダ働きでいいならいくらでも教えてあげますよ(笑)。
 アイスバインをメニューに加えない理由というのも、やっぱり僕が弟子をとらないから。すべてを僕ひとりでやってるもんだから、注文を受けてから4時間も煮込み始めるわけにはいかないでしょ? 3日ぐらい前に電話してくれれば喜んで出すけど、とてもじゃないけど毎日は難しい。身体を休めるのも仕事のうち。だってもう62歳なのに日曜しか休みがないんだよ! なんとかしてよ~!

 そんな悲鳴とは真逆の微笑みとともに、自ら新しいワインを開けてしまう中崎さん。日々の苦労は笑いに転化しつつ、料理への賞賛はサラリとかわしつつ、まさに「飄々」という言葉がピッタリと当てはまる。

 褒められるのは苦手だね。料理は無の心境でつくってるのが自然だし、楽なんですよ。褒められると、その人になにかしてあげたくなっちゃうからさ(笑)。あー、なんなら今日は8時で閉めちゃおうかな(笑)。そもそも僕は儲けようと思ってないからね。だってうちの料理は減価率40%を超えてるんだよ。儲けようとしたらこんなことやらないし、要は生き方なんですよ。お客さんの幸せそうな顔を見ながら、少しでも長く働ければいいわけ。たまにお酒を飲んで泣く人もいるけどさ、かわいい笑顔を見せてもらえれば、こっちまで朗らかな気分になれるし、そうやってでっかい声で笑って暮らせたら最高じゃないですか。

う~ん、この安定感! と唸らせられる「キャベツ、アンチョビ、ソーセージのスパゲティ」。この日の締めの締め!

 気づけば店内には常連たちがチラホラと。すぐさま厨房とテーブルを忙しく行き来し、彼らが何を求めているのか、また、心から満ち足りているのかを、細やかに確認して歩く中崎さん。そう、いい店のいい店主とは、客の顔を本当によく見ているものなのだ。

 自分は料理以外のことがまったくできないから、お客さんと話すことで、ようやく世間と繋がりがもてるというのもあるんですよ。だってこの歳になっても趣味がないんですよ。時計もカメラも好きにならない。洋服にも興味がない。こないだうちの従業員に「レストランのマスターなんだからきちんとシャツに着替えてから家に帰ってください!」なんて注意されちゃってね(笑)。そりゃあ夢はありますよ。いつか自転車で日本列島をゆっくりと廻りながら食べ歩きしたいと思ってるんだけど、実はその前にもうひとつ店をやりたいと思っててね。ホント、我ながらつまらない男だと思いますよ。

欧風家庭料理 VON 神奈川県横浜市港北区日吉本町1-4-22 笠井ビル2F
045-562-3230
営業時間:11:30~14:30/18:00~23:00
定休日:日曜日

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