あの店のヒトサラ。
ヒトサラをつくったヒト。
ヒトを支えるヒトビト。
食にまつわるドラマを伝える、味の楽園探訪紀。
ヒトトヒトサラ09 / TEXT+PHOTO:嗜好品LAB ILLUST:山口洋佑 / 2014.11.25 渋谷区笹塚「喜の字」石井久司さんの「とまとのぬか漬け」
このサイトを読んでいる人に、「出汁の大切さ」を伝える。正直なところ、そんなことに意味があるのだろうかと思う。
40~50代の諸先輩方は「んなことわかってるわ!」となるだろうし、20~30代には説教臭く読めてしまうかもしれない。しかし出汁。やはり出汁なのだ。
渋谷区笹塚の「喜の字」は、長い長い名物商店街「笹塚十号通り商店街」の最北にあり、店主・石井久司さんの料理は、夕飯にも晩酌にも夜食にも対応。家族連れからひとり客にまで、伝統の美味を独創的な組み立てで食べさせてくれる。
「発酵食品の奥深さ、素材本来の滋味深さ……」と続ければ、やはり退屈に思ってしまう人もいるかもしれないが、「口中いっぱいに山海の猛威が襲いくるディザスター・テイスト! 酒を狙う怪盗あんきも! アタック・オブ・ザ・キラー・フルーツトマト!」……というのも決して悪ノリではない。
そう、素材本来の美味しさは、優しさを越え、暴力的ですらあるのだ。

名物商店街に支えられた、笹塚の味


笹塚は庶民的な町だよね。お店の人同士も仲がいいし、昔ながらのいい商店も多い。長いつきあいの八百屋は隣の幡ヶ谷にあるんだけど、酒と魚はここまでくる商店街(笹塚十号通り商店街)にあるお店。この界隈をぐるっと廻ればたいていのものは揃っちゃう。
うちの酒は本間酒店さんだね。日本全国のいろんな蔵本さんを廻って、丹念なつくり方の酒だけを扱ってるお店。魚ももう20年ぐらいつきあいのある石川商店。この界隈の200軒ぐらいに卸してる老舗です。うちみたいに小さな店は、魚も丸々1匹はいらない。ブリだったら4分の1とかね。石川のおやっさんは河岸の終わりに乗り込んでいって、「これをこれだけ取るからこの白身もいっしょによこせ」みたいな感じで大量に仕入れてくるから、もともとの値段が良心的で、そうなるとこっちも気前よく出せる。石川に頼む前は自分も河岸までいってたけど、そうなると、とてもじゃないけど夜まで(店を)開けてられない。この店は自分ひとりでやってるからね。お客さんにゆっくり楽しんでもらうためには、睡眠時間も大切なんですよ。あ、趣味のボウリングも笹塚でやってますよ(笑)。
酒は石川県の宗玄からスタート。徳利からの、ことととと……という音を聞きながら、目の前で切り分けられてゆく刺身を眺める。薄いブリの身を、ひょいと口に放り込む石井さん。ネタ箱の中で熟成した旨味を確認し、包丁を握り直す。
お刺身はシャコとブリ、スミイカ。あとは天然の真鯛。シャコは岡山のおかべ水産のもので、もう10年ぐらい気に入って使ってる。真鯛は3キロのもの。活け締めを3日寝かせて旨味が廻ったところを、松かさ造りにしてます。塩を軽くふってから、クッキング・ペーパーを被せて、皮を狙って熱湯をかけて、冷水に浸けてね。やっぱり魚にしても野菜にしても、皮ぎしに美味しさがあると思うので、皮といっしょに出せるものはなるべくそうしてます。イサキとかノドグロなんかはとくに美味しいね。

質実剛健を地でいく刺身の盛り合わせは、ネタそれぞれの新味に加え、取り合わせの妙にも箸が急ぐ。艶やかな塩気をまとった真鯛、ブリの濃厚な後味を、スミイカの清楚な甘みが追いかける。肉厚のシャコには旨味のジュースがぎっしり。先制ジャブ4発、というよりもかなり大振りのフック4発に、胃袋がざわつく。
スミイカも旨いでしょう? これは夏の終わりから出てくる初物で、このかわいいサイズで1匹なの。これも甘みがあってすごくいい。
次は蒸し物いこうかな。うちは電子レンジも圧力釜もないからいつも蒸し器が動いてるんだよ。圧力釜なんて5万円もするのを貰ったことがあるんだけど、結局カミさんにあげちゃった(笑)。(圧力釜といえば)豚の角煮とか牛スジ煮込みなんかが浮かぶと思うけど、鍋でじっくり煮込んだ味と比べてしまうと、どうしても満足できない。確かに柔らかくはなる、でもそれは、舌にとろけるような柔らかさとはちょっと違ってね……。
はい、これはさっきのお刺身の鯛を三五八(さごはち)漬けにしてから蒸したもの。



「三五八漬け」というのは、東北に伝わる麹漬けのこと。塩、麹、蒸した米を3:5:8の割合で使い熟成させたものを漬け床に、肉や野菜を漬け込む郷土料理だ。
三五八の漬け床は、それだけだとすごく塩分が強いので、美味しい酒と水で延ばしたものを使ってます。うちのは少し酒粕も入ってるし、米よりも麹が強いから、あくまで3:5:8というのは目安なんだけどね。少し前に流行った塩麹だと、酸味が立ちすぎて邪魔になることもあるけど、これはまろやかでしょう? 野菜もいろいろと漬けてるけど、これまでのトップはアボカドかな。あいにく八百屋に熟れたものがなかったので、今日は出せないんだけどね……あとは甘エビとか、イカ。これも刺身の切れっぱしを漬けておくだけで、すごく上品な「白づくり」になる。……そうそう、これはきのう漬けた帆立。ちょっと食べてみて……って、さっきの刺身のときに出し忘れただけなんだけど(笑)。
季節を食べるという喜び。時間がない人は、めんつゆを1本買えばいい
それにしても、続々と積み上がる大小容器!(これなら帆立ひとつ忘れたとしても当然!?)。発酵食品や漬け汁にこだわり、「美味しく仕込んだものを美味しいままに、そのまま寝かせることでもさらなる美味しさが引き出せるように」という仕込みのスタイルは、石井さんが、カウンターをひとりで切り盛りするための技であり、機能美だといえる。
もちろんそれもあるけど、あとは、たくさんの品数を少しずつ出すためのものでもありますね。うちは遅くまでやってるから、少し飲んで帰りたいという人も多くて、それだとそんなに(量は)いらないでしょう? とくにここ数年は、大きな皿をドーンと出すよりも、小さな皿の品数を増やす方向に変わってきてるんですよ。高級食材も、丸々ひと皿に使ってしまうと、どうしても客単価が上がって、決まったお客さんしかこなくなる。そうなると、なんのためにこれだけ面倒な仕込みをしているのかわからない。だったらひと皿を小さく、気軽に頼める値段に設定して、なおかつ全部のメニューのハーフサイズも出すようにしてね。ひと皿でお腹がいっぱいになる満足感もいいとは思うけど、いろんな味をたくさん食べることでの満足感というのもあると思うしね。



さらにつけ加えるなら、石井さんの仕込みは「出汁の旨さを最大限に伝えるためのもの」。半透明の玉手箱に沈む里芋やカブは、喜の字の味の真髄=出汁をたらふくに吸い込み、ときに主菜/副菜の鮮やかな逆転劇を巻き起こす。
やっぱりリピーターの人は野菜を中心に頼んでくれるね。連れのお客さんに「ここはなんでもないものが旨いんだよ」なんて紹介してくれるのを聞くと、すごくうれしい。なんだよ里芋かよ、なんだよゴボウかよ、っていうところに力を入れてるので、そういうものはつけあわせとしてでも少しずつ食べてもらうようにしてます。ふだん和食を食べ慣れてない人にはちょっと入りづらいかもしれないけど、うちはそういう人にこそビックリしてもらえる味だと思いますよ。知ってるようで知らなかった伝統の部分でも驚いてもらえると思うし、僕なりのアレンジの部分にも喜んでもらえると思う。
冒頭にも書いたよう、喜の字の味は、華やかでいて暴力的。カレーやラーメンが散弾銃だとすれば、ここの煮物やおひたしは、急所を射抜くライフルのようなもの。一撃必殺の澄み切った味が、ストンと胃に落ちるときの衝撃は、杯を重ねるごとに強くなる。
今はお母さん連中も忙しいから、もはや「家庭の味」っていうのはない時代でしょう? 煮物はスーパーとかお惣菜屋さんで買ってるという人もいるかもしれないけど、持ち帰りの場合は間違いがあっちゃいけないから、すごく味を濃くせざるをえない。塩分を濃く、糖度を高く設定して、持ち歩いても傷まないようにしてる。そうなると、昔ながらの日本の味というのは、うちみたいな店でないと味わえない。おかしな話だよね。……僕が20数年通ってる、ある焼き鳥屋の親父さんが、こんなにでかい里芋を丸ごと煮ていて、それは箸をつけるだけでスーッと切れるような柔らかさだったんだけど、やっぱり手間なのか、いつのまにかやらなくなっちゃった。筑前煮も美味しかったんだけど、それもなくなってね……たぶん今、居酒屋の野菜っていったらサラダがメインなんだろうね。和食は去年(ユネスコ無形)文化遺産に登録されたばかりなのに、残念だと思うよ。
じゃあ、次は野菜がメイン。かぶを煮たものと、かぶの葉のおひたし、群馬の玉こんにゃく。薬味は去年からつくり始めた柚子味噌で、柚子の皮を「粗みじん」にして、味噌と練り込んだもの。まずは味噌の美味しさが先にきて、歯が皮を噛むたびに柚子の香りが広がる。擦り柚子でも美味しいけど、この奥ゆきは出ないと思う。……こういう味噌は家庭でもできるから、ぜひやってみてほしいですね。豆腐や生野菜にもいいだろうし、振り塩を薄めにしておいた焼き魚に塗ってもいい。炊いたごはんが余っていたら、この味噌とじゃこをあわせたものを乗せて食べたりね。

う~ん、想像しただけで腹が鳴る。少しの手間で食卓が豊かになる、常備菜や自家製調味料。石井さんは「その美味しさを伝えることが、将来的にはうちの味を守ることになる」とも語る。
出汁の美味しさもそうだけど、なにより「季節を食べる喜び」というのを日常から味わってもらえれば、「うちの味もいいけどたまにはプロの味を食べにいこう」と思ってもらえると思うんですよ。だから、うちで出してるブロッコリ、アスパラ、おくらのおひたしなんかをやってみたいという人には、出汁の分量から教えてあげます。時間がない人であれば、いいめんつゆが1本あればいいんです。まず「野菜は生でも食べられる」ということを意識して、歯ごたえを残すようにサッと茹でる。それを冷水に浸けて、水気を切ったら、かけそばの汁ぐらいに薄めためんつゆに漬けておく。これだけでいい。もちろんプロの味とは違うけれど、こういうものをふだんからつくっておけば、ドレッシングなんて必要なくなるし、季節を食べるという習慣もできる。このまま高齢化や少子化が進んで、旬の味に興味を持つ人がいなくなったら、うちなんかもうやっていけないからね。
旬といえば、今日は露地物の舞茸があります。里芋もまだ出してないし、そこにあん肝を盛ろうかな。

シャキシャキとした繊維の隙間から、肉汁かと思うほどの旨味があふれる舞茸。ねっとりとしつつ、小気味よい歯ごたえを残した里芋。そして真打ちあんきもの、蜜のような脂。隣の席からは、「なんだかいけないものを食べてるみたいですね……」という感動が零れる。

鍋物のイメージが強いのか、あん肝の旬というのはみんなが冬場だと思ってるけど、春の終わりから初夏ぐらいのものも脂がのってて旨いんですよ。みんなが使い始めると高騰するから内緒にしときたいんだけど(笑)、そういう自分も10年ぐらい前にフレンチのシェフに教わってから使い始めてね。
うちのあん肝は、日本酒に漬けたものを、醤油でうっすら味つけしただけ。前にきた若いお客さんで「ボソボソしたものをポン酢で食べて苦手になった」という人がいたんだけど、もちろんその人にも喜んでもらえました。あん肝の旨さは脂の旨さだから、脂がのってないものはどう料理したって駄目なんだよね。逆に、脂が旨ければポン酢は必要ない。市販のポン酢というのはマヨネーズといっしょで、すべてをポン酢の味にしてしまうしね。
そういえば、僕の田舎は北海道なんだけど、鍋にもポン酢は使わないから、東京に出てきてびっくりしてね。向こうの鍋っていうのは、出汁だけで食べるんですよ。鍋から具材と出汁をいっしょにすくって、あとはちょっとの薬味だけ。塩味にしても味噌味にしても、まずは素材の味が立っていて、それだけで充分に美味しかったから。
喜の字の原点、お泊まり会のオムライス
石井さんを育てた鍋の味。家庭の味。喜の字のメニューを「高度に洗練された家庭料理」と捉えれば、その影響の大きさも想像できるというもの。
うん、影響は多大ですね。うちのおふくろはとにかく料理が上手でね。やっぱり季節ごとのおしんこなんかはめちゃくちゃ旨かったな。……もうちょっとおふくろ自慢をすると、僕がガキの頃、まだ田舎のデパートにはレストランなんてない時代に、どこで仕入れてきたのか、マカロニ・グラタンとかハンバーグをつくってくれてね……。ある日、友だち同士のお泊まり会というのがあったときに、うちのおふくろがみんなにオムライスを出したんですよ。もう、熱狂的な反響で(笑)。僕も鼻が高くてね。次の日から、いろんなやつに「今度はおれんとこ泊まりにこいよ」って誘われるんだけど、どの家も夕飯はオムライスだった(笑)。
石井さんのルーツをここに見たり。クラス中を熱狂させたオムライス事変は、包丁の技や出汁引きのコツにも勝る根源的なもの、つまりは「料理で人を喜ばせること」の感動を宿された原体験といえるだろう。見慣れた食材が、確かな手仕事と、少しの意外性で、やにわに輝き出す。喜の字の料理はそんな輝きの集積ともいえる。
さて、ここで今回のヒトサラ。これもまさに意外性の喜びにあふれた「とまとのぬか漬け」だ。
…といっても、固めのフルーツトマトを湯剥きして、クッキング・ペーパー越しのぬか床に挟むようにして冷蔵庫に入れておくだけなんだけどね。うちのぬか床はもともと塩分が低くて、なおかつこれは冷蔵庫での保存なので、どこまで菌が働くかというのはあるんだけど、漬けていないものと食べ比べると、コクがまったく違うのがわかるんです。

そのコクが旨い。ぬかの持つ華やかな酸味とトマト本来の甘みがあまりにも自然に溶け合っているものだから、これ自体が「新種の野菜」のようにも思える。居酒屋の定番「冷やしトマト」で日本酒、というのは少々違和感があるが、このトマトは多芸多才。日本酒にも焼酎にも、もちろんビールにも無理なくフィットする。やはりこれは「ぬか漬け」なのだ。


ぬか漬けとトマトであったり、さっき話した三五八漬けとアボカドだったり、料理のレパートリーっていうのは、ひとつ引き出しを増やすだけで、グンと広がる。たとえば刺身用のブリだって、旨味が廻りすぎたら、頭の部分といっしょに煮てやればいい。そうやって引き出しと引き出しをあわせることで、どんどんメニューは増えていく。料理人はその部分を楽しめないと、新鮮な気持ちを保てないと思うんだよね。やっぱり「固定メニュー」というのはつまらないですよ。よくきてくれるお客さんにも毎回違う味で喜んでほしいと思いますしね。
この商売は、お客さんが入らなければ落ち込んで、混んだら混んだで断るお客さんが出てきてしまうのでまた落ち込んで…っていうのの繰り返しだけど、僕の場合は常連さんに似たようなものしか出せなかったときがいちばん落ち込むかもしれない。こうして魚や野菜を出していても、頭のどこかで「そういや最近は肉を使えてないなぁ」とかね……。
自分の料理は人のためのもの。その想いは強いです。家の料理はカミさんに任せているから、僕が自宅の台所に立つのは正月だけで、それも、お客さんにつくったおせちの残りを割り振るぐらいのものでね。でも、僕の子どもがまだ小さかった頃は、よく人が遊びにきていたから、そのたびに僕は台所で忙しくしていた。それはやっぱり、友だちを喜ばせたかったから。結局のところ、料理って誰を喜ばせるかだと思う。おふくろのオムライスにしても、うちの煮物にしてもそう。インスタント・ラーメンだって、自分でつくるよりも親しい友だちとか家族がつくってくれたもののほうが美味しいでしょう? 食べる人の顔が見えていれば、そのぶん美味しくできる。料理ってそういうものだと思うんだよね。

喜の字
東京都渋谷区笹塚3-19-2 青田ビル1階A
03-5371-3690
営業時間:18:00~26:00(月~土) 18:00~24:00(日・祝)
定休日:日月連休の月曜日/不定休
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